「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」展 横須賀美術館から金沢文庫の巡回展

横須賀美術館で「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」展 を見てきました。

運慶は、鎌倉幕府という新政権と密接に結びつき、北条氏からの信頼を背景に、
東国での活躍の場を得、浄楽寺(横須賀市芦名)に残る1189年作の諸像をはじめ、
横須賀ゆかり氏族・三浦一族の造仏にも関与しています。
その影響は、満願寺横須賀市岩戸)に残る菩薩立像などにも及びます。
この展覧会では、横須賀市内に残る運慶および運慶工房作と見られる仏像を中心に、
前後する時期の仏像や書跡等、三浦半島の歴史と文化を見ることができました。

この展覧会は、神奈川県立金沢文庫(10月7日~)との巡回展となっています。
横須賀は三浦一族に、文庫は鎌倉幕府に、それぞれ重点を置いた展示内容となっています。

日本の仏像彫刻史においてナンバーワンの人気仏師・運慶が活躍したのは平安時代末期から鎌倉時代。12世紀半ばから13世紀、貴族中心の社会から武士が政権を握る社会への
転換期に、運慶とその一門の慶派は、新たな仏像表現を生み出しました。

運慶が生まれた正確な年は不明ですが、息子・湛慶(たんけい)が承安3(1173)年生まれであることなどから、およそ1150年ごろと推測されています。

 

運慶デビュー

運慶の父親は、興福寺周辺を拠点にした奈良仏師のひとりである康慶(こうけい)。
当時の仏師は、平安中期の仏師・定朝(じょうちょう)の系譜を引く3集団に分かれていて、奈良仏師に加えて、京都を拠点とする院派と円派がありました。
貴族に支持された“定朝様”を保守的に受け継ぐ院派・円派に対して、奈良仏師は新しい造形表現を模索し、一門を率いたのが康助(こうじょ)、康朝(こうちょう)と運慶の父、康慶だったのです。

実力のある奈良仏師として知られていた父・康慶のもとで修行していた運慶が、初めて単独で仏像制作を担ったのは25歳ごろ、安元2(1176)年に完成させた奈良・円成寺大日如来坐像。本来ならば3か月ほどで制作できる仏像ですが、11か月という時間を費やした入魂のデビュー作でした。

南都焼打後の復興に尽力
それから4年後の治承4(1180)年、
平清盛安徳天皇を即位させ、独裁政権を樹立すると、それに反発した源氏一門が各地で挙兵。
源平の戦いは激しさを増し、ついに、その年末、平重衡(たいらのしげひら)が東大寺興福寺に火を放ち、多くの伽藍が大炎上して破壊されたのです。
運慶は、父・康慶と一門の仏師たちとともに、その復興に尽力することになります。

南都復興の大事業が着手され、円派・院派の仏師たちとともに、奈良仏師も造像を請け負い、平家が滅亡した翌年の文治2(1186)年には、運慶作の興福寺西金堂の本尊が完成しました。
さらに、同年、源頼朝の義父である北条時政の依頼で、
伊豆の願成就院(がんじょうじゅいん)の仏像を制作します。
そのとき運慶は35歳ごろ。実際に東国に赴いたかは明らかではありませんが、
鎌倉幕府と強い関係を結び、運慶の活動は奈良にとどまらず、活躍の場を東国に広げていったのです。

チーム運慶
運慶はベテランの仏師・快慶や息子・湛慶などと一門で総力を挙げ、
南大門の金剛力士(仁王)像を完成させました。8mを超える高さで
木製部材3,000点にのぼる寄木造の巨像で日本の金剛力士像の代表作です。
ひとりでノミを振るうのではなく、
運慶がディレクターとなり、各々が高い技術をもつ一門の仏師たちとチームで作品をつくる工房制作によって、大きな仏像を次々と手がけることができたのです。
建仁3(1203)年の東大寺総供養に際して、運慶は僧綱位(そうごうい)の最高位である法印に叙されています。

承元2(1208)年に制作が始まった興福寺北円堂の諸像の制作は南都復興の最後のしめくくりであり、運慶自身にとっては集大成とも言うべき仕事になりました。
玉眼が輝き、まるで生きているかのようなリアリティを感じる無著・世親の2像、そして四天王像は、いずれも運慶の息子たちが制作を担い、運慶工房の最盛期の技術が遺憾なく発揮されています。

 

運慶isナンバーワン

貞応2(1223)年に運慶が没した後は、湛慶が一門を率いて慶派の繁栄は続きますが、
残念ながら、運慶の力強さを超えることができませんでした。

誰も越えられない仏師としての実力があり、想像力があり、企画力があり、ディレクターとしての実力もある。皆を率いる人柄もあったでしょう。知れば知るほど運慶の魅力に気づきます。