Bunkamura ザ・ミュージアム「マリー・ローランサンとモード」展 4月9日までです。

《ニコル・グルーと二人の娘 ブノワットとマリオン》1922年

 

Bunkamura ザ・ミュージアム「マリー・ローランサンとモード」展を見てきました。

ともに1883年に生まれ、パリで活躍したマリー・ローランサンとココ・シャネル。
美術とファッションの境界を交差するように生きた二人の活躍を軸にした展覧会です。

 

《わたしの肖像》1924年

どちらも貧しい生まれ育ちながら、パリで輝く存在となった二人。
成功した証にローランサン肖像画を描いてもらうことがステイタスとなった時代です。
「パリ育ち」を、田舎育ちのシャネルに対して優越感としていた、
そんな感情が出ているのか、シャネルに依頼されて描いた《マドモワゼル・シャネルの肖像》(1920年)は、
スカーフが蛇のように巻き付いて暗い顔、のっぺりした胸。
シャネルは描き直しを依頼しますが、ローランサンが譲らなかったため、結局シャネルは受け取りませんでした。


カール・ラガーフェルド、シャネル 2011年春夏 オートクチュールコレクションより 《ピンクとグレーの刺繍が施されたロング・ドレス》 2011年

シャネルの2011年春夏コレクションは、ローランサンからインスピレーションを受けたもの。

 

《牡鹿と二人の女》(1923年) のファイルが素敵でした。

 

1920年代のパリは、国境を越えて才能が集まり、ジャンルを超えて出会い、芸術が生まれた時代でした。
スペインからパブロ・ピカソアメリカからはマン・レイ

美術、音楽、文学、ファッションが垣根を越えて交流することで、
セルゲイ・ディアギレフが主宰したロシア・バレエ団「バレエ・リュス」などの総合芸術が生まれました。
ローランサンが手がけたのが、1924年初演の『牡鹿』の衣裳と舞台美術。
淡く優美な世界はローランサンの絵そのもの。
音楽はプーランク、振り付けはニジンスカ(ニジンスキーの妹)。
ローランサンは、この舞台からたびたび舞台の仕事を手がけるようになったのです。

シャネルは1924年に『青列車』の衣裳を手がけます。
台本は、ローランサンとココ・シャネルの共通する親しい友人でもあったジャン・コクトー
舞台美術はパブロ・ピカソ
ゴージャスすぎる顔ぶれです。

1930年代に入ると人気に翳りが見えはじめ、作品も次第に変化していきます。微妙な諧調のグレーに溶け込む淡いピンクや青が、明るく強い色彩に。はかなげだった人物も存在を主張するようになり、愛好家を嘆かせました。

 

ローランサンは詩人アボリネールの恋人で、別れたあともアボリネールが恋の記憶を題材に、「ミラボー橋」など有名な詩を残していますが、
ここにはジャン・コクトーの詩を書いておきたいと思います。

 

「マリイ・ロオランサン」
ジャン・コクトー
堀口大學

野獣派〔フォオブ〕と立体派〔キュビスト〕の間で
小さな牝鹿よ、あなたは罠にかかった。
 
芝生と貧血があなたのお友達の
鼻を蒼ざめさせる。

佛蘭西はしとやかなお嬢さん、

クララ・デレブウス、
ソフィ、フィチニ。
 
やがて戦争も終わりませう、
お前の扇の間に
やさしい獣(けもの)が後脚で立つために、

佛蘭西萬歳。萬々歳。


ローランサンの書いた詩もいくつかありますが、こちらはよく知られていますね。

「 鎮静剤」
マリー・ローランサン 
堀口大學

退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。

悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。

不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。

病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。

捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。

よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。

追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。

死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。

6年間恋人だったアポリネールの結婚と死の知らせを聞き、その後書いたものです。
(ちなみにローランサンは結婚していました)

退屈な女から始まり、結局一番哀れなのは忘れられた女なのですね。なんてオシャレな詩でしょうか。

 

アンリ・ルソーの絵にも、恋人同士だったアポリネールローランサンが描かれています。《詩人に霊感を与えるミューズ》(1909年)のミューズがローランサンです。

 

 

ローランサンは、帽子の女性をたくさん描いています。靴を何十足も持っていたという、とてもお洒落なローランサン。帽子はファッションアイテムとしてだけでなく、画面構成のうえでも重要アイテムでした。

 

エコール・ド・パリの画家との交流だけでなく、さまざまなジャンルにおける才能と出会い、衣装デザイン、舞台美術、詩も残したマリー・ローランサン。その作品の魅力と、1920年代のパリの芸術界にふれる、素晴らしい展覧会でした。

ロビーラウンジでは、
ザ・ミュージアムマリー・ローランサンとモード』タイアップメニューがいただけます。
アッシ・パルマンティエ(サラダ、パン付き)2,200円

 

湘南美術アカデミー

高松三越美術画廊「鍋島正一 個展 -光の街・水の國-」7日までです。

 湘南美術アカデミーの講師であり、新制作協会で活躍されている、鍋島正一先生の個展が高松三越で開催されています。

 

光と水をテーマに、長く滞在したイタリアの風景と日本ならではの風景を描いた珠玉の作品の数々をご覧いただけます。

6年ぶりの開催となりますので、ぜひお出かけください。

湘南美術アカデミー

 

♯湘南美術アカデミー♯高松三越♯鍋島正一♯新制作協会

藤沢市民ギャラリー「アクア彩展」

蝦名協子先生の作品

 

 

蝦名協子先生の生徒さんによる、アクア彩展を見てきました。

蝦名先生が選んだ、ピカソセザンヌ、ブラック、デ・キリコの作品といくつかのモチーフを、生徒さんが自由に組み合わせて制作します。

 

キュビスムをはじめとする20世紀美術に大きな影響を与えたポスト印象派セザンヌ

 

シュルレアリスムデ・キリコキュビスムのブラック

 

黒田さんだけのセザンヌ

セザンヌの色やタッチが水彩で写されています。ダイナミックなヴィクトワール山にテーブルクロスとリンゴ。

とても素敵な作品です。

 

横浜や江ノ島でのスケッチに、人物やモチーフを組み合わせて創作した作品。

創作の楽しさが会場いっぱいに広がっていて、明るく豊かな気持ちになる展覧会でした。

 

鏑木清方記念美術館「うつりゆく時代を見つめて―江戸から東京へ―」

 鏑木清方記念美術館「うつりゆく時代を見つめて―江戸から東京へ―」を見てきました。

「暮れゆく沼」(明治33年、1900)という作品がありました。
 若い女性が草の上に座って横笛を吹いています。働く日常着のような着物で藁草履、という素朴な姿ですが、なんと綺麗な人でしょうか!
モデルは清方の従姉と説明に書いてありました。
こんなに綺麗な従姉さんがいたのですね。この美しい人は、どのような生涯だったのでしょうか、と思いをはせ、清方の美人画の原点はここにあったのかも知れないと思いました。

美しい女性?少女のようにも見えます。
裸足に藁草履なのですが、片方脱げていて、そのまま構わずに笛に夢中になっている様子は幼く感じられます。
草の上に座っている、その姿勢も、描かれているという意識があまりないのか、自然で可愛らしいのです。

けれど、木々の葉が落ちた、秋の夕暮れの沼の景色は物悲しくて、横笛の女性も寂しげに見えます。

ロビーで図録を見ましたら、詳しく書いてありました。
モデルは一緒に暮らしていた従姉のキクさん。清方と結婚すると思われるほど仲がよかったのですが、親戚の家に養女に出され、いじめられ、お嫁にいくも病気になって若くして死んでしまったということ。
なんて悲しいお話しでしょうか。

あらためてもう一度「暮れゆく沼」を見てみました。
1900年の作品で、清方は1878生まれですから 22才のときの作品です。
従姉、とあるのでキクさんは23,24くらいでしょうか。
養女にいってしまったのは、この作品を描いたどのくらい後のことなのでしょうか?お別れが決まってから描いた絵なのでしょうか?
どんな気持ちでモデルをつとめ、どんな気持ちで描いたのか、、、。

 

欄干から雪吊りをする少女が描かれた「雪旦」(昭和16年)は可愛らしい作品。
明治時代の冬の子どもの遊びに取材した「雪吊り」。
木炭に糸をつけて垂らして雪を玉のようにつけて釣るものだそう。裂け目の多い木炭のほうがたくさん釣れるそうです。
雪遊びもいろいろ。こんな遊び方も楽しそうですね。
これまで知らなかったのですが、調べてみたら、国芳の江戸の雪景色にも、雪吊り遊びが描かれていました。

 

湘南美術アカデミー

 

静嘉堂文庫美術館@丸の内「初春を祝う―七福うさぎがやってくる!」

 

静嘉堂文庫美術館静嘉堂@丸の内) で「初春を祝う―七福うさぎがやってくる!」を見てきました。横山大観の「日の出」ほか、初春らしいおめでたい作品が並ぶ展覧会でした。


中でも、総勢58体の御所人形の一大群像「木彫彩色御所人形」の華やかさといったら!


この御所人形は、卯年生まれの岩﨑小彌太(いわさき・こやた、1879~1945)の還暦を祝って、夫人・孝子が京都の人形司・丸平大木人形店の五世大木平藏(おおき・へいぞう、1886~1941)に制作させたものです。

七福神の「宝船曳」と「輿行列」を中心に、「鯛車曳」「楽隊」「餅つき」の5つのグループによって構成される総勢58体。持ち物、乗り物など、すべてが木彫彩色で精巧に仕上げられていて、表情や仕草が可愛らしく楽し気です。そして布袋様は小彌太、弁天様は孝子夫人の姿になっているのです。
お写真と比べて見ましたが、お顔も雰囲気もよく似ていました。


この御所人形は、昭和14年(1939)8月、東京麻布の鳥居坂本邸における還暦祝賀会で初めて披露されました。この長列の人形をどこにどのように飾ったのかしら、と思っていましたら還暦祝賀会の写真がありました。大きく長いテーブルの真中に、ズラーッと並べられてお披露目されていました!

この写真では還暦の主役はもちろん、招待客まで全員、桃のような可愛い頭巾とちゃんちゃんこを身に着けていました!プロデューサーは夫の還暦のお祝いにお人形を依頼した孝子夫人でしょうか。
なんてお洒落!この遊び心というか、とことんこだわる楽しさというか、そうした岩崎小彌太夫妻のお人柄が感じられる、とても素敵なお写真でした。

初春の丸の内にピッタリの明るい展覧会でした。

曜変天目茶碗」も心ゆくまで鑑賞できました。

「岩崎家のお雛様」のファイルも購入。春ですものね。



東京ステーションホテル2階のTORAYA TOKYO

へ。

こちらでしか購入できない、パリ店発のアールグレイ饅頭は売り切れ!

洋風テイストの和菓子は魅力的です。

こちらはアールグレイベルガモットが香る素敵なお味です。

カフェではお饅頭とお抹茶のセットをいただきました。お茶碗は可愛いうさぎちゃん。

うさぎ尽くしの楽しい一日でした。

泉屋博古館東京「不変/普遍の造形ー住友コレクション中国青銅器名品選ー」

泉屋博古館東京で 『不変/普遍の造形―住友コレクション中国青銅器名品選―』を見てきました。
住友家15代当主の住友春翠が、煎茶席に飾る美術品としてコレクションしたものです。
なんとも不思議で凝った文様や形状の青銅器の数々!


中国青銅器とは、神々に捧げるまつりのための器として発達したもので、このデザインは祖先神をもてなすことを重要視したことから生まれたものなのだそうです。

青銅器が生産されたのは、紀元前1600年ごろにできた、殷(いん)という王朝の時代。
殷は、亀の甲のひび割れを占いに使い、政治をしていました。漢字の基ができたのも殷の時代。

占いの結果を甲羅に彫り付けたものが漢字の基になったそう。
殷や周といった古代王朝が栄え、青銅器文化が発達したこの時代は、日本でいえば長ーい縄文時代の後半。主な道具は石で作られていた頃で、
青銅器を作るようになったのは朝鮮から技術が入ってきた弥生時代ですから、中国の青銅器の歴史の深さには驚くばかりです。

中国では紀元前3000年ごろのものと思われる青銅器も見つかっていますが、これらはメソポタミアなどの先進文明の地域から交易によって持ち込まれたものと考えられています。

中国青銅器の最大の特徴のひとつは、器の表面を埋め尽くすようにあらわされた文様やモチーフの数々です。
繊細複雑な造形には、中国古代の人々の思想や信仰があらわれているのだそう。
中国青銅器の文様は、後世に流行する吉祥文様とは違って、人間にとって危険であるがゆえに聖性(邪を払う聖なる存在)があるという、「二面性」が特徴となっているといいます。
しかも、実在の動物をそのままあらわすのではなく、動物のパーツをさまざまに組み合わせて、この世ならざる文様をつくりあげるという、「キメラ」としての性格も認められるものということ。

中国青銅器の文様には、古代中国の職人たちの卓越した技による当時の精神世界が表されているのです。

青銅器に鋳込まれている文字は「金文(きんぶん)」と呼ばれ、漢字の祖先にあたるもので、当時の社会の価値観や歴史的事件を記す貴重な史料でもあるそうです。


展覧会にあわせて3Dデータを用いたデジタルコンテンツが制作され、展示されているので、こちらも見どころです。
太古の文明をデジタルコンテンツで体験!現代文明と融合させて、新しい世界を見せてくれます。興味を引くわかりやすい解説と、たくさんの名品から、中国青銅器の魅力に目覚めた展覧会でした。

 

 

渦巻文は、饕餮(怪獣)による気やエネルギー。

 

 

I

このような文様を饕餮(とうてつ)といいます。神様に祀るために作られた青銅器の代表的な文です。これは伝説上の貪欲な怪獣の名前。

古来の人びとの思想や信仰が込められた文様だと考えられています。
器の表面を埋め尽くす繊細で複雑な造形には、人間にとって危険であるがゆえに聖性(邪を払う聖なる存在)を帯びている、という「二面性」が表されているのだそうです。

鏑木清方記念美術館「冬の輝きー美人画と押絵羽子板ー」展

鏑木清方記念美術館で「冬の輝きー美人画と押絵羽子板ー」展を見てきました。

鏑木清方は、明治11年、東京神田に生まれました。幼い頃から文芸に親しんで育ち、その画業のはじまりは挿絵画家からでした。のちに肉筆画に向い、清らかで優美な女性の姿や、いきいきとした庶民生活、肖像、愛読した樋口一葉泉鏡花などの文学を主な題材として描かれた作品は、市井の人々への共感や慈愛のまなざしが感じられます。』

鏑木清方は随筆で「冬をさう厭はしく思ふことはなかった。第一好きな雪が降る。」(『鏑木清方文集四 春夏秋冬』)とつづり、落ち葉焚きや小雪の舞う墨田川など凛とした冬の美しさを好んで描きました。また、年の暮れから新年の賑わう街と人々の様子にも趣を感じ、古きよき新春の風景も作品や口絵に描きました。
本展覧会では、冬景色に取材した作品とともに、名押絵師・永井周山が清方作品を意匠化した押絵羽子板「明治風俗十二ケ月」をご紹介します』

福引きでいただいた絵葉書。嬉しいです!

 

神田に生まれ幼いころから文芸に親しみ、13歳で浮世絵師・日本画家の水野年方に入門した鏑木清方
水野年方の師匠は、月岡芳年芳年の師匠は、歌川国芳
最後の浮世絵師ともいわれた月岡芳年の芸者達の絵は華やかで色っぽく魅力的です。四季折々を盛り上げる、その場の空気が伝わってくるようです。おどろおどろしい作品もありますが、美人画としては、芳年と清方には通じるものを感じます。

芳年の師匠は国芳。清方の系譜に国芳、奇想天外な作風と清方は結びつかないけれど、なんだか面白いです。

清方の弟子のひとりには伊東深水がいます。美人画といえば、清方、上村松園伊東深水ですが、清方の美人は、身近に感じることができる美人だと思います。

この展覧会では、「しつらえ」という言葉を思い出しました。
日本人の暮らしの中にある、季節ごとの「しつらえ」。細かく描かれた、かわいらしい女性や暮らしの様子は、どこかなつかしくいとおしく、つぶさに見て、幸せな気持ちになりました。

羽子板がまた素晴らしく、清方の描いた着物の柄までそっくりに再現されていて、さらにいきいきと清方の取材した景色を伝えてくれました。
庶民に心を寄せて「卓上芸術」を提唱し、雪や冬景色を好んだ清方の作品は、ほんとうに清らかです。

冬の鎌倉に似合う展覧会でした。

絵葉書セットを買いました。