モダングラフィックの井手先生にご紹介いただいた、センスの本。
水野学さんの『センスは知識からはじまる』(水野学/朝日新聞出版)
水野さんは、くまモンなどのアートディレクションで知られる、日本を代表するデザイナーです。
そもそもセンスって何でしょう?
センスがよいってどういうことなのでしょうか。
ファッションのセンス、スポーツのセンス、経営のセンス。センスというのは単純なものではなく、数字で測れるものではないそう。
「センスのよさとは数値化できない事象のよし悪しを判断し最適化する脳力である」
では、その能力を養うためにはどうしたらよいの?
それは「普通を知ること」
「普通こそ、センスのいい悪いを測ることができる唯一の道具なのです」
「普通を知ることはありとあらゆるものをつくり出せる可能性がたくさんあるということです」
なんてわかりやすいのでしょう!形に見えない、言葉で説明できない、と思っていた「センス」。
漠然ともやもやとした何か素敵な感じのもの、そういうものが「センス」だと思ってきたので、
定義できるものだと知ったことは衝撃でした。
センスが必要とされない仕事などひとつもない、企業の価値を最大化する方法の一つ、会社が存続するか否かも決めるのもセンスが関わっていると水野氏。
「大人になるにつれて受験科目ではない、将来役に立たないと除けられて、音楽や美術など芸術との決別が起こります。
けれどセンスはデザイナーやクリエイティブディレクターにだけ必要なものではなく、ビジネスパーソンとしてアドバンテージになることは確かです」
高度成長期以降、日本は、技術力の高さから、ものづくりの日本と言われるようになりました。
便利なもの、安いもの、高性能なものをつくれば売れる。
しかし本来の日本は技術だけの国ではありません。江戸時代までは、研ぎ澄まされた独自の美意識をもつ「センスの国」でした。茶の湯を確立した千利休が活躍した安土桃山時代はセンス・美意識が花開いた時代。
技術がピークを迎えるとセンスの時代がやってくるのです。
ピークまで進歩するとノスタルジックな思いに身を寄せ美しいものを求める傾向があると水野氏は語ります。
たとえば、1834年生まれのウィリアムモリスが提唱した「アーツ・アンド・クラフツ運動」は、
イギリスで起きた産業革命の結果、安価で粗悪な大量生産商品があふれたことで、
「工場の大量生産品を使うのではななくもう一度手仕事に戻ろう。くらしの中に美しいものを取り入れよう」
「手仕事という懐かしさをフックにしたセンス革命」でした。
センスの時代への変換だったのです。
日本では、1926年に民藝運動が起こりました。民藝とは民主的工芸の略です。代表は陶芸家の濱田庄司や河井寛次郎、バーナード・リーチ、染色家の芹沢けい介、宗教哲学者の柳宗悦など。
「技術とセンス、機能と装飾、未来と過去。こんなふうに対になっている時代の間をみんなが行ったり来たりしている気がする」
「市場はすでにセンスの方向に動き始めている」「センスのあるビジネスパーソンが求められている」と水野氏は述べます。
ではどうやってセンスを身につければいいの?それは普通を知ること。その唯一の方法は知識を得ること。
「センスとは知識の集結である」
たとえばセンスの良い文章を書くには言葉をたくさん知っていた方が圧倒的に有利。
「すべての仕事は価値を創造していくことで対価を得ています」
「イノベーションは知識と知識の掛け合わせ、ものをつくる人間は新しさを追い求めながら過去へのリスペクトも忘れないことが大切なのではないでしょうか。知識に基づいて予測することがセンスだと考えている」
「知識というのは紙のようなものでセンスとは絵のようなもの」と水野氏。
仕事のセンスは日々、自ら磨いていくもの。
そのためには知識を広げること。
センスとは、生まれながらに持っている、とか家庭環境や成長段階でを身につくものであると思っていました。それは大きいとは思いますが、
それだけではない。能動的に取り入れて磨いていかなくては。
事柄、言葉に限らず世の中のさまざまなことを、自分の知識とすることで、すべては自分のセンスの素として、いつかどこかで役に立つ。
市場はすでにセンスの方向に動き始めているのです、センスのあるビジネスパーソンが求められているのです。
モダングラフィックのクラスは、まさに「手仕事という懐かしさをフックにしたセンス革命」。
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湘南美術アカデミー