《ニコル・グルーと二人の娘 ブノワットとマリオン》1922年
Bunkamura ザ・ミュージアムで「マリー・ローランサンとモード」展を見てきました。
ともに1883年に生まれ、パリで活躍したマリー・ローランサンとココ・シャネル。
美術とファッションの境界を交差するように生きた二人の活躍を軸にした展覧会です。
《わたしの肖像》1924年
どちらも貧しい生まれ育ちながら、パリで輝く存在となった二人。
成功した証にローランサンに肖像画を描いてもらうことがステイタスとなった時代です。
「パリ育ち」を、田舎育ちのシャネルに対して優越感としていた、
そんな感情が出ているのか、シャネルに依頼されて描いた《マドモワゼル・シャネルの肖像》(1920年)は、
スカーフが蛇のように巻き付いて暗い顔、のっぺりした胸。
シャネルは描き直しを依頼しますが、ローランサンが譲らなかったため、結局シャネルは受け取りませんでした。
カール・ラガーフェルド、シャネル 2011年春夏 オートクチュールコレクションより 《ピンクとグレーの刺繍が施されたロング・ドレス》 2011年
シャネルの2011年春夏コレクションは、ローランサンからインスピレーションを受けたもの。
《牡鹿と二人の女》(1923年) のファイルが素敵でした。
1920年代のパリは、国境を越えて才能が集まり、ジャンルを超えて出会い、芸術が生まれた時代でした。
スペインからパブロ・ピカソ、アメリカからはマン・レイ。
美術、音楽、文学、ファッションが垣根を越えて交流することで、
セルゲイ・ディアギレフが主宰したロシア・バレエ団「バレエ・リュス」などの総合芸術が生まれました。
ローランサンが手がけたのが、1924年初演の『牡鹿』の衣裳と舞台美術。
淡く優美な世界はローランサンの絵そのもの。
音楽はプーランク、振り付けはニジンスカ(ニジンスキーの妹)。
ローランサンは、この舞台からたびたび舞台の仕事を手がけるようになったのです。
シャネルは1924年に『青列車』の衣裳を手がけます。
台本は、ローランサンとココ・シャネルの共通する親しい友人でもあったジャン・コクトー。
舞台美術はパブロ・ピカソ。
ゴージャスすぎる顔ぶれです。
1930年代に入ると人気に翳りが見えはじめ、作品も次第に変化していきます。微妙な諧調のグレーに溶け込む淡いピンクや青が、明るく強い色彩に。はかなげだった人物も存在を主張するようになり、愛好家を嘆かせました。
ローランサンは詩人アボリネールの恋人で、別れたあともアボリネールが恋の記憶を題材に、「ミラボー橋」など有名な詩を残していますが、
ここにはジャン・コクトーの詩を書いておきたいと思います。
野獣派〔フォオブ〕と立体派〔キュビスト〕の間で
小さな牝鹿よ、あなたは罠にかかった。
芝生と貧血があなたのお友達の
鼻を蒼ざめさせる。
佛蘭西はしとやかなお嬢さん、
クララ・デレブウス、
ソフィ、フィチニ。
やがて戦争も終わりませう、
お前の扇の間に
やさしい獣(けもの)が後脚で立つために、
佛蘭西萬歳。萬々歳。
ローランサンの書いた詩もいくつかありますが、こちらはよく知られていますね。
「 鎮静剤」
マリー・ローランサン
堀口大學訳
退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。
悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。
6年間恋人だったアポリネールの結婚と死の知らせを聞き、その後書いたものです。
(ちなみにローランサンは結婚していました)
退屈な女から始まり、結局一番哀れなのは忘れられた女なのですね。なんてオシャレな詩でしょうか。
アンリ・ルソーの絵にも、恋人同士だったアポリネールとローランサンが描かれています。《詩人に霊感を与えるミューズ》(1909年)のミューズがローランサンです。
ローランサンは、帽子の女性をたくさん描いています。靴を何十足も持っていたという、とてもお洒落なローランサン。帽子はファッションアイテムとしてだけでなく、画面構成のうえでも重要アイテムでした。
エコール・ド・パリの画家との交流だけでなく、さまざまなジャンルにおける才能と出会い、衣装デザイン、舞台美術、詩も残したマリー・ローランサン。その作品の魅力と、1920年代のパリの芸術界にふれる、素晴らしい展覧会でした。
ロビーラウンジでは、
ザ・ミュージアム『マリー・ローランサンとモード』タイアップメニューがいただけます。
アッシ・パルマンティエ(サラダ、パン付き)2,200円
湘南美術アカデミー