「板谷波山展」泉屋博古館

 

泉屋博古館東京で「板谷波山の陶芸」展を見てきました。生誕150年の記念展

です。

 

板谷波山18721963)は陶芸家として初めて文化勲章を受章した日本陶芸界の巨匠。91歳でなくなっています。

 

日本の陶芸の歴史は古く、縄文時代から始まっています。

陶芸家はずっと「職人」であり「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからのことだそうです。近代とは明治維新から太平洋戦争の終わり。1868年から1945年の約80年間のことです。個人、自由平等、科学、理性に価値を置くようになりました。

 

波山が、正規の美術教育を受けた陶芸家であり「アーティスト」としての陶芸家の、日本における最も初期の人だそうです。

 

波山は東京美術学校東京芸術大学)彫刻科に入学し、岡倉天心高村光雲らの指導を受けています。彫刻家だったのですね。1894年(明治27年)に東京美術学校を卒業した後、金沢の石川県工業学校の彫刻科の主任教諭となり、一年後に彫刻科が廃止されたことで陶磁科(後に窯業科)で陶芸を教えています。もともと陶芸に興味があったということです。

 

波山は、彫刻的な文様、釉下彩の技法に加え、当時欧州で流行していたアール・ヌーヴォーの様式をいち早く受容し、新しい意匠表現を生み出しました。一方で中国の古陶磁なども学習し、独自の青磁白磁の制作にも取り組みました。

 

なんとも上品で高尚。柔らかく抑えた美を、

色彩、模様、手触り(つるつるではなく上質な紙のような感じを想像)から感じました。「皇室」のイメージです。

また優しさやノスタルジーと同時に、新しさや面白みや伸びやかさも感じられます。

 

今まで見たどの陶芸家とも違いました。

展覧会では、波山陶芸の変遷を通して、今見ても新しさがある波山陶芸の魅力を見ることができました。

湘南美術アカデミー

マリー・クワント展 Bunkamura ザ・ミュージアム 2023年1月29日(日)までです。

 

BunkamuraBunkamura ザ・ミュージアムで2023年1月29日(日)まで開催中

 

「マリークワント展」を見てきました。60年代のストリートカルチャーを牽引した、マリー・クワントの業績をたどる展覧会で、

マリー・クワントの出身地イギリスでは約40万人が訪れた注目の世界巡回展、日本初の回顧展です。

 

デイジーマークのマリークワントは今でも人気がありますね。この展覧会では、マリー・クワントのコスメが日本に上陸した1971年以前のファッションアイテムをたくさん見ることができるのです。

 

50年前の服もコスメもとてもチャーミング。1960年当時はどれほど衝撃的だったことでしょうか。

 

1930年、ロンドンに生まれ、1950年代にロンドンのファッションシーンに登場したマリークワント。

ミニスカートを広め、60年代のストリートカルチャーを牽引したイギリスのファッションデザイナーのレジェンドです。

 

 

1955 25歳で若者向けのブティック「バザー」をロンドンに開店。

自分が着たいものをデザインし販売し大人気に。お店のショッパーを持つのがオシャレ!というスタイルはの、クワントの戦略で、BAZAARが最初ではないかしら。

 

パリのオートクチュールが中心の時代のこと。

エレガンスな装いが好ましいという考え方や、貴族/労働者など階級意識に縛られた価値観を打ち破り、ミニスカートやタイツなどのファッションアイテムを広く浸透させました。特にミニスカートは1960年代に世界的なブームとなり、女性の社会進出の象徴とも捉えられるように。

 

男性のスーツや軍服の素材やデザインといったそのテイストを残しながら女性がかっこよく、かわいく着られるようなデザインのカジュアルな服の展示もあり、ジェンダーのさきがけでもあったのだと思いました。

 

大量生産にいち早く注目し、大手衣料メーカーやデパートに既製服のデザインを提供し上質で手頃な既製服を量産したことで、マリークワントのデザインは各国に広がりました。

 

新素材を取り入れた先駆けもクワント。カラフルで光沢があり機能性もあるレインコートからクワントの革新性も見ることができました。もちろんデザインも革新的です。

 

着回しできるデザインを考えたのもクワントの戦略。次の購入へと誘うテクニックです。

 

グローバルな展開を視野に入れ、1966年にブランドロゴの先駆けとなるデイジーマークを商標登録し現地企業に生産 販売を任せるライセンス契約を採用。

 

広報戦略の一つとしては、自分自身がブランドの顔になること。1966年イギリスのファッション輸出に貢献したことで勲章を受ける際、バッキンガム宮殿に自身のデザインで現れた姿が世界中の新聞に載ることを見越したものです。メディア露出効果を考えるという先見性もありました。

 

 

クワントはエリザベス女王とほぼ同年代です。

現在92歳。

 

衣服から化粧品、インテリアまでライフスタイル全般のクリエーション、ブランドロゴの先駆けとなったデイジーマークとライセンス契約を駆使した世界的なブランド展開、自らファッションアイコンとなり徹底的に露出する広報戦略、60年代当時、斬新な試みでヒットしたクワント。

 

モデルのツイッギーやビートルズと共に、60年代イギリス発の若者文化「スウィンギング・ロンドン」を引っ張ったデザイナーとして、また優れた女性起業家として再評価が進んでいるそう。ファッション、ビジネス、カルチャーと、さまざまな観点で楽しめ、勉強になる展覧会です。

 

 

 

横須賀美術館「開館15周年 生誕120年 猪熊弦一郎展」

 横須賀美術館で「開館15周年 生誕120年 猪熊弦一郎展」を見てきました。 
90歳でこの世を去った猪熊弦一郎さんの作品からは、 明治、大正、昭和、平成の、その時代の空気を感じとることができました。
猪熊さんヒストリーとともに変わっていく作風!死ぬまで制作し、暮らしを楽しみ、家族を愛し、なんていい人生だったのだろうかと思いました。

猪熊さんは1902年生まれ。

1922年、東京美術学校の洋画科に入り藤島武二に師事した頃、時代は明治と昭和の間であり、わずか15年間だった大正時代でした。

大正デモクラシーといわれた民主主義、自由主義的な運動が発展した民主化の時代で、
美術の世界では、個人の主観を尊重する気風が芽生え、西洋モダニズムアールデコの影響を受けた、人間性豊かでロマンチックな作品が生まれたそうです。

 

1938‐1940はパリでマティスに師事。マティスに「お前の絵は上手すぎる」といわれ、自分の絵になっていないということだと理解し、
自分の表現とは何か、美しさとは何かを考え続けます。パリでは藤田嗣治との出会いもありました。
第二次世界大戦が起こったことで帰国し、その後中国、従軍画家としてフィリピン、ビルマと戦地へ派遣されます。

1945年の終戦後は、1947年から1987年まで小説新潮の表紙絵を描き、1950年に三越の包装紙「華ひらく」をデザイン。
海岸で拾ってきたというモチーフとなった石が展示されていましたが、結構大きいものでした。包むと平面であっても立体的に見えるというデザイン!
高級感のあるモダンなカラーで、戦後すぐの、復興の世の中で、どれだけこのデザインが輝いていたことでしょうか。文化的で素敵な暮らしの推進力になっていたことと思います。文字は当時宣伝部にいた、やなせたかしさんだそう。

猪熊さんは、上野駅の壁画「自由」慶應義塾大学壁画「デモクラシー」などパブリックアートも手がけます。これらのパブリックアートに青年時代に影響を受けた大正デモクラシーの気風が感じられます。

1955‐1975の20年間のニューヨーク時代には、画家のマーク・ロスコジャスパー・ジョーンズ、音楽家で作曲家のジョン・ケージらとの交流がありました。
そして抽象画を描くようになります。

1973(昭和48)年、一時帰国中に脳血栓で倒れたことで、日本に戻り、ハワイと日本の生活を始めます。明るい色彩で丸や四角や動物や植物のような形が散らばるような作品が増えます。宇宙に強い興味を持ち多くの作品の題材にして、90歳で亡くなるまで描き続けました。

今回の展覧会の見どころのひとつでもある作品、横須賀美術館所蔵の《三人の娘》。
ここにはイームズチェアが描かれています。イームズからイサム・ノグチをとおして、猪熊と同時代のデザイナー、剣持勇に贈られたもので、実物が置いてありました。イサム・ノグチから贈られた人形も展示され、イサム・ノグチとの交流も見ることができました。

「美を意識するいいレシーバーを持っていると、あらゆるものが幸福になってきますよ」という猪熊さんの言葉があります。
美を受信できる感覚は、人を幸福にする・・・ということでしょうか。
みんなが美を通して、たくさんの幸福をキャッチできる世界は、心豊かでゆとりのあるなんと素晴らしい世界でしょうか。

奥様と猫を愛した猪熊さんの絵のモチーフは、「自分の愛するもの」。
明るく生きた猪熊さんの晩年の絵は、鳥がたくさん描かれた明るい色彩の作品でした。

またいつか横須賀美術館で《三人の娘》を見たいものです。

 

 

 

 

湘南美術アカデミー

 

茅ヶ崎市美術館「THE 新版画 版元・渡邊庄三郎の挑戦」11月6日(日)までです。

 

 

 

お庭も美しい茅ヶ崎市美術館。ただの黄色いお花だと思ったら、かわいいヒヨコが。何のお花でしょうか。ぜんぶがピヨピヨになるのでしょうか?

 

 

 

茅ヶ崎市美術館で「THE 新版画 版元・渡邊庄三郎の挑戦」を見てきました。

 

「新版画」とは、浮世絵版画(錦絵)の技と美意識を継承すべく、大正初年から昭和のはじめにかけて興隆したジャンルです。
伝統的な彫りや摺りの技術に、同時代の画家の芸術性を合わせようとした版元・渡邊庄三郎(1885-1962)の試みから始まりました。
私が渡邊庄三郎を知ったのは川瀬巴水の新版画から。瑞々しくモダンな版画に驚き、
巴水の新版画を巴水とともに40年にわたり制作してきた渡邊庄三郎に巴水以上に興味がわいてきたのです。
今回は、渡邊木版美術画舗の協力により、残存数が少ない貴重な初摺の渡邊版をとおして、庄三郎の挑戦の軌跡をたどりつつ、魅力に触れられる展覧会ということでたいへん楽しみにしてきました。

 

『渡邊庄三郎は17歳で浮世絵商・小林文七の輸出の出店(横浜店)に勤め、そこで出会った浮世絵の、とりわけバレンで摺る木版画特有の美しさに魅了され、木版画の復興と新しい木版画制作を志します。
その後独立し、明治42年(1909)に東京・京橋に渡邊版画店を構え、浮世絵研究と販売を行うかたわら、

大正4年(1915)から、来日した外国人画家の作品の版画化を試み、鏑木清方門下生を中心とした新進気鋭の画家たちを絵師に起用します。絵師、彫師、摺師の協業のもと、高品質な材料を用い、それまでにない複雑かつ華麗な彩色に「ざら摺り」など手摺りならではの技法を駆使するなど、庄三郎の創意工夫と優れた審美眼に支えられた新たな「浮世絵木版画」を世に送り、昭和の初めに国内外で巻き起こる“新版画ブーム”の火付け役となりました。』

貿易商の勉強をしていた庄三郎が浮世絵に惹かれ木版画制作をするようになったのは、
1885年に大工職の息子として生まれたことも関係があるのかもしれません。
大正4,5年ごろ、フリッツ・カペラリやチャールズ・W・バートレットの作品をたくさん制作していますが、小林文七の店が、外国人のみを相手にする日本美術展であったことから英語も堪能であったことでしょう。

チャールズ・W・バートレットの《ホノルル波乗り》は、まっすぐ海まで歩いて行ける茅ヶ崎市美術館で鑑賞するのにピッタリの作品です。
大正の歌麿と称された橋口五葉、川瀬巴水伊東深水など鏑木清方門下生、小原古邨(祥邨)などの作品ほか、
写真やパーティーの招待状などから、この時代の芸術界の様子が伝わってくるのも魅力です。

ぜひお出かけくださいね。

古邨のマスクケースです。

可愛らしいお土産も揃っています。

湘南美術アカデミー

鏑木清方記念美術館「鏑木清方と渡辺省亭 ―江戸画人の水脈―」展 10月19日まで

 にぎわう小町通りから、ちょっと脇に入ったところにある、鎌倉市鏑木清方記念美術館。
日本画の巨匠、鏑木清方作品の展示と、清方の画室や客間の床の間を見ることができます。

 

今回の展覧会では、2021年の東京芸術大学大学美術館の渡辺省亭展にも展示された『牡丹に蝶の図』(1893)も見ることができます。
垂らしこみの、ぽってりとしたピンクの牡丹が目をひき、
白い牡丹に留まった黒い蝶がアールヌーボーのブローチのようで、
日本画の中に西洋を感じるところが魅力的だと思うのです。

省亭を知ったのは、芸大の展覧会の少し前くらいだったと思います。
小原古邨も川瀬巴水もここ数年で知りました。
そういえば田村一村も、それほど前のことではありません。
新たな驚きと感動を与えてくれる、たくさんの画家にこれからも出会えると思うと、とても嬉しい気持ちになってきます。

今回の展覧会は、清方が省亭に寄せる思いから、清方の心のありようが感じられるものでした。

幕末に生まれた省亭は、16歳で歴史画の大家・菊池容斎に入門。独立後
28歳で起立工商会社の一員としてパリに渡った、日本画家として初めて渡欧した人なのです。
しばらくは展覧会にも出品していましたが、後半生は画壇と距離を置き、下町の旦那衆などからの注文制作だけを手がけるようになりました。

清方は13歳で挿絵画家をこころざす前から、本や雑誌に載せられた省亭の口絵や挿絵に接し、その清新な画風に魅せられていました。一時省亭に花鳥画を学んだ水野年方に入門して研鑚を積み、やがて流麗な線描と情緒豊かな作風で挿絵画家、日本画家として名を馳せるようになります。
省亭の作品を蒐集して自宅の床の間に飾り、晩年まで省亭に私淑した清方は、鎌倉の清方邸に省亭の《向島雪景色》をかけていました。

『一生自分の描きたい絵を描いて厄介な社交を避け好きな微吟浅酌の趣味に活き、趣味生活を其のままの芸術を楽しんで終わつた先生の一生は、現代ばなれのした名人らしい生涯であつた。』(鏑木清方文集より)

華やかな画壇にいた大家である清方の、本当の心は、青年時代から私淑してきた省亭のような生き方だったようです。
大家という言葉がなじみすぎて、このような思いを持っていたことは意外でした。   

省亭の魅力を通して、清方の画家としての心のうちを思い、
清方の人間性にふれることができた気がして、たいへん充実した展覧会となりました。

 

「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」展 横須賀美術館から金沢文庫の巡回展

横須賀美術館で「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」展 を見てきました。

運慶は、鎌倉幕府という新政権と密接に結びつき、北条氏からの信頼を背景に、
東国での活躍の場を得、浄楽寺(横須賀市芦名)に残る1189年作の諸像をはじめ、
横須賀ゆかり氏族・三浦一族の造仏にも関与しています。
その影響は、満願寺横須賀市岩戸)に残る菩薩立像などにも及びます。
この展覧会では、横須賀市内に残る運慶および運慶工房作と見られる仏像を中心に、
前後する時期の仏像や書跡等、三浦半島の歴史と文化を見ることができました。

この展覧会は、神奈川県立金沢文庫(10月7日~)との巡回展となっています。
横須賀は三浦一族に、文庫は鎌倉幕府に、それぞれ重点を置いた展示内容となっています。

日本の仏像彫刻史においてナンバーワンの人気仏師・運慶が活躍したのは平安時代末期から鎌倉時代。12世紀半ばから13世紀、貴族中心の社会から武士が政権を握る社会への
転換期に、運慶とその一門の慶派は、新たな仏像表現を生み出しました。

運慶が生まれた正確な年は不明ですが、息子・湛慶(たんけい)が承安3(1173)年生まれであることなどから、およそ1150年ごろと推測されています。

 

運慶デビュー

運慶の父親は、興福寺周辺を拠点にした奈良仏師のひとりである康慶(こうけい)。
当時の仏師は、平安中期の仏師・定朝(じょうちょう)の系譜を引く3集団に分かれていて、奈良仏師に加えて、京都を拠点とする院派と円派がありました。
貴族に支持された“定朝様”を保守的に受け継ぐ院派・円派に対して、奈良仏師は新しい造形表現を模索し、一門を率いたのが康助(こうじょ)、康朝(こうちょう)と運慶の父、康慶だったのです。

実力のある奈良仏師として知られていた父・康慶のもとで修行していた運慶が、初めて単独で仏像制作を担ったのは25歳ごろ、安元2(1176)年に完成させた奈良・円成寺大日如来坐像。本来ならば3か月ほどで制作できる仏像ですが、11か月という時間を費やした入魂のデビュー作でした。

南都焼打後の復興に尽力
それから4年後の治承4(1180)年、
平清盛安徳天皇を即位させ、独裁政権を樹立すると、それに反発した源氏一門が各地で挙兵。
源平の戦いは激しさを増し、ついに、その年末、平重衡(たいらのしげひら)が東大寺興福寺に火を放ち、多くの伽藍が大炎上して破壊されたのです。
運慶は、父・康慶と一門の仏師たちとともに、その復興に尽力することになります。

南都復興の大事業が着手され、円派・院派の仏師たちとともに、奈良仏師も造像を請け負い、平家が滅亡した翌年の文治2(1186)年には、運慶作の興福寺西金堂の本尊が完成しました。
さらに、同年、源頼朝の義父である北条時政の依頼で、
伊豆の願成就院(がんじょうじゅいん)の仏像を制作します。
そのとき運慶は35歳ごろ。実際に東国に赴いたかは明らかではありませんが、
鎌倉幕府と強い関係を結び、運慶の活動は奈良にとどまらず、活躍の場を東国に広げていったのです。

チーム運慶
運慶はベテランの仏師・快慶や息子・湛慶などと一門で総力を挙げ、
南大門の金剛力士(仁王)像を完成させました。8mを超える高さで
木製部材3,000点にのぼる寄木造の巨像で日本の金剛力士像の代表作です。
ひとりでノミを振るうのではなく、
運慶がディレクターとなり、各々が高い技術をもつ一門の仏師たちとチームで作品をつくる工房制作によって、大きな仏像を次々と手がけることができたのです。
建仁3(1203)年の東大寺総供養に際して、運慶は僧綱位(そうごうい)の最高位である法印に叙されています。

承元2(1208)年に制作が始まった興福寺北円堂の諸像の制作は南都復興の最後のしめくくりであり、運慶自身にとっては集大成とも言うべき仕事になりました。
玉眼が輝き、まるで生きているかのようなリアリティを感じる無著・世親の2像、そして四天王像は、いずれも運慶の息子たちが制作を担い、運慶工房の最盛期の技術が遺憾なく発揮されています。

 

運慶isナンバーワン

貞応2(1223)年に運慶が没した後は、湛慶が一門を率いて慶派の繁栄は続きますが、
残念ながら、運慶の力強さを超えることができませんでした。

誰も越えられない仏師としての実力があり、想像力があり、企画力があり、ディレクターとしての実力もある。皆を率いる人柄もあったでしょう。知れば知るほど運慶の魅力に気づきます。 

 

 

 

 

蝦名協子先生のクラス「大人のアトリエ」有志展

 鎌倉のギャラリーカフェ、ジャックと豆の木で、蝦名先生の生徒さん7名による、なないろ展が開催されています。
11日までですので、ぜひお立寄りください。http://jack-bean.jp/index.html


マティスによせて」 マティスをイメージしてのコラージュ作品です。

味わいのある木を写生して制作した、コラージュ作品。それぞれの方の個性が表れます。

教室にあるモチーフを組み合わせたり、モネの絵をイメージしたものを作品の中に取り入れたりと、
絵作りが楽しい蝦名教室です。
楽しみながら真剣にレッスンを続けてこられた生徒さんの情熱が感じられる力作揃い!
豊かな色彩と発想に触れて、エネルギーをいただける「なないろ展」でした。